何をどうしてよいか分からないということがある。わたしは早くから哲学に親しんできたが、大学に入り、哲学を専門的に学び始め、いざ卒業論文を書く段になって、おそらくは人生最大の何をどうしてよいか分からないことに逢着した。フッサールの現象学を論文のテーマにすることは決めていたが、そもそも学術論文をどのように書けばよいのかがまるで分からなかったのである。そうした指導が大学においてまったくなかったわけではない。しかし、わたしがそのとき求めていたのは、そうした一般的なことではなく、もっと本源的なことであった。フッサールの文献を読んでいるうちに、わたしは或る違和感を覚えるようになっていた。フッサールの文献を読み、フッサールの言わんとするところを理解し、問題点を見出し、それについて自分なりの解釈を開陳する。「フッサール」を他の哲学者に変えてみれば、これが一般に哲学の文献研究とされるものである。しかし、それでいったい何が身につくというのか。わたしは現象学者に(それも生粋の超越論主義者に)なりたいと強く願っていたが、到底それは期待できそうになかった。大学院に入ってからもわたしの逡巡は続き、ずいぶんと悲惨な研究生活であった。しかし、そうしたなかでも次第に、自分が求めているものを言葉にできるようになっていた。「そもそもフッサールの文献はいかなるものとして、われわれの目の前にあるのか。」「フッサールは自身の文献を研究する者に対し、何を求めているのか。」「フッサールの文献を研究することで、われわれは何を目指しているのか。」フッサールの文献研究をめぐり、わたしがこれまで抱いてきた3つの問いである。およそ、こうした問いをもってフッサールの研究を始める者はあるまい。いかにも素人臭い問いだと思われよう。蓋しここに、わたしの独創がある。世のフッサール研究者が何をどうしているのかが、わたしには実によく透けて見える。努力の仕方を誤ってはならない。